ヒストリー わたしたちの街

  • ヒストリー わたしたちの街「『死んだら作品を焼却してほしい…』ひとりの芸術家を殺した戦争」
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「死んだら作品を焼却してほしい…」
ひとりの芸術家を殺した戦争


太平洋戦争の激戦地・ブーゲンビル島で亡くなったひとりの画家がいる。
芸術家を殺した戦争とは何だったのか。残された絵画や手紙からひとりの兵士の生き様をたどる。

リンゴ箱から出てきた大量の絵画

リンゴ箱から出てきた大量の絵画

「何や、こんなのが残っていたのかと自分でも驚きました。よく残っていたなという感じですよね」

菊池市に住む笠昭二さん(78)は興奮ぎみに話し出した。昭二さんが見つけたのは、リンゴ箱に詰め込まれた大量の絵画や手紙。自宅の隣にあった蔵を解体しようと片付けをしていたところ、大切にしまってあった数々の思い出が見つかった。

ハガキをよく見ると検閲済みという印鑑が押されている。太平洋戦争の激戦地、ブーゲンビル島で亡くなった叔父が戦地から送ってきたものだと確信した。

リンゴ箱から出てきた大量の絵画

「授業が楽しかった」
今も忘れられない大好きな先生

叔父の名前は笠秀雄さん。1914年に菊池市に生まれ、幼い頃から詩を書いたり、絵を描いたりするのが得意だった。帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)を中退した後は、菊池に戻り小学校の教師になった。

「授業が楽しかった」今も忘れられない大好きな先生

笠秀雄さんの教え子で菊池市の泗水小学校に通っていた上田敦子さん(94)。上田さんにとって小学校3年生の担任だった秀雄さんはお気に入りの先生だ。当時を思い出しながら、満面の笑顔で話した。

「たった1年間だったけど思い出の多い忘れられない先生でね。今でもはっきり覚えています。面白いことを言いながら、チョークを持って両手で黒板に絵を描くんですよ。授業もとにかく楽しかったです」

「行ってきます」を最後に夢をつぶされて…日の丸旗で見送った先生

「行ってきます」を最後に…
日の丸旗で見送った先生

1939年召集令状が秀雄さんのもとへ届く。すでに中国では戦火が上がっており、周りにも戦死者が出ていたなか、社会の情勢変化を感じ取り覚悟を決めたのではないかとおいの笠さんは話す。秀雄さんは召集令状を受け取った日にこんな詩を残した。

「召されし日に つつましく満ちたるもの
実れる麦の整列 その日の野いばらは匂ひ
山峡の村路をたどる 石橋を渡れば がうゝと瀧の瀬音生命を叫ぶかの如く
壮んなるかな生々流転の様よ 今や訣然と在るがまゝ運命のまゝ
大いなる力に吾が生涯をゆだねる」

教え子だった上田さんは出征する日、駅にかけつけて秀雄さんを見送った。上田さんは自宅から持ってきた竹に日の丸を書いた紙を貼り付けて小さな旗を作った。クラスメイトと並んで「万歳」と繰り返し、日の丸旗を振ったという。

「先生は敬礼をして戦地へ行きました。私たちはその電車が見えなくなるまで見送りました。やっぱり緊張していたんじゃないかな。言葉はあまり多くなかったように思います。『行ってきます』とおっしゃったのは覚えていますね」

見送った先生の背中を眺めながら、「体に気をつけて頑張ってください」と心の中で願った。

秀雄さんが戦地から出した手紙

秀雄さんは学校の子どもたちに向けて戦地からハガキを出していた。上田さんは、先生からのハガキが楽しみで届く日を心待ちにしていたという。自分からも返信の手紙を書いた。戦地にいても、子どもたちを笑顔にして喜ばせた先生は変わらなかった。ハガキの内容は今でも忘れられない。

「ここは常夏の国で暑いところです。鳥が電線にとまっていると焼き鳥になって落ちてくる。だからこっちのスズメはいつも足踏みをしています。そんなユーモアを交えて面白く書かれているんですよ」

上田さん卒業の年には、担任として受け持っていた子どもたちが無事に成長したか確認する手紙も学校の教員宛に届いていた。

「若い頃から詩を書いて、絵を描いて、しっかり生きていた先生ですけれども、その夢もつぶされて。本当に残念だったろうな。私たちも本当に何か戦争の怖さと言いますかね、恐ろしさと言いますか、それをもう本当に感じましたね」

両親に送り続けた絵画と部隊新聞

両親に送り続けた絵画と部隊新聞

両親に送り続けた絵画と部隊新聞秀雄さんが所属していたのは陸軍歩兵第13連隊。中国転戦後、ラバウル、ソロモンへ進出。その後、太平洋戦争の激戦地「墓島」と呼ばれるブーゲンビル島で最期を迎えた。秀雄さんは1944年11月にマラリアにかかり、翌月に戦死したという。30歳という若さだった。戦地では現地の暮らしぶりや風景、兵士をスケッチし、菊池に住む両親へ送り続けた。

おい・笠昭二さん
「絵や手紙には本当に悲惨なことは、ひとつも触れていなかったですね。だから戦争の様子を描いた絵は1枚もありません。芸術家としての魂みたいなものをこのスケッチブックに込めたと思いますね。だからこそ暇をみて描いたものを親元に送り続ける気力があったんだろうと思うんですね。」

歩兵第13連隊の通称号・明9018部隊の“18”という数字から“18報”と呼ばれる部隊新聞も笠さんの手元に残されている。“18報”は戦争中にあっても、文芸にいそしみ互いの教養に努めるという意向で発行されたのではないかという。この部隊新聞の編集に秀雄さんは携わっていた。端午の節句、5月5日の18報の挿絵は秀雄さんが描いたもの。鯉のぼりを背景に毛むくじゃらで大きな男を突き刺す日本兵の姿が描かれている。兵士が身につけているうちわには“藤崎宮”の文字。戦地でも故郷への思いをにじませていた。

 「死んだら焼却を…」芸戦争が殺したひとりの画家

「死んだら焼却を…」
戦争が殺したひとりの画家

秀雄さんが実家へ送った最後の手紙はラバウルからだった。作品を故郷に送り続けてきた秀雄さんの最後の言葉は鉛筆でこう綴られていた。

「私が死んだら過去の芸術作品の一切をご焼却願います。遺稿集など出してくださいますな。芸術家として死ぬよりも一個の平凡な兵隊として死んだ方が尊いことであります」

それでも作品は家族によって大切に保管されてきた。戦後60年に約束を破って遺作展を実施した昭二さんは、便せん3枚に叔父への思いをしたためて遺骨収集団に託した。秀雄さんが亡くなったブーゲンビル島で手紙を燃やしてもらった。

「遺作展をして約束を破ったことを謝りました。でも全部焼却してくれというのは絶対に本心じゃなかったはずでしょうと書きましたね」

戦後78年が経つ今は菊池市の菊池飛行場ミュージアムに秀雄さんの絵が展示されている。笠秀雄という画家がこの世に存在していたという証をきっと残したかったはずだと信じて…。

「作品が永遠に残れば、なおよかろうというふうな思いの人たちが芸術家じゃないかなと思うんですよね。死んだら全部なくなってしまったじゃ、あまりにも虚しいものですよね。だから私はそういうふうに叔父の気持ちを勝手に想像しながら、今こういう活動を続けています。弔いのひとつでもあるかな」