太平洋戦争の激戦地・ブーゲンビル島では日本兵約3万3000人あまりが戦死した。戦後78年経った今も忘れられない兄の面影。男性は戦争の記憶を語り継ぐ。
頬ずりして去っていた兄
ハガキに綴った家族への思い
「兄はね、ここで亡くなったんですよ」
手作りの地図を広げ、指さしたのは南太平洋のブーゲンビル島(現・パプアニューギニア)。熊本市で暮らす舩﨑三義さんは93歳になった今も戦死した兄を思い活動を続けている。
舩﨑さんの兄・一義さんは9人兄弟の長男だった。早くに父を亡くしたため、家族を支えようと福岡県の八幡製鉄所に勤務。1941年7月に召集令状が届き、熊本市中央区大江地区にあった野砲兵第6連隊に入隊した。
「いよいよ家を出発する時に『行ってくるね、元気でいろよ』と。ちょうど私が病気をしていたので『元気になって勉強も頑張れ』と言いましたね。『兄は戦争に行ってくるから』と言って家を出たんですよ。そしたら30メートルくらいして舞い戻ってきて、私に頬ずりをしたんです。涙は見えませんでしたけれども、私に母を頼むというような託す気持ちがあったのでしょうかね」
兄・一義さんは軍務の合間をぬって母にハガキを送り続けた。中国牡丹江からは4ヶ月で20通、フィリピンからは2ヶ月で15通、インドネシアからは3ヶ月で15通と家族を思う気持ちを言葉にして書き留めている。インドネシアのジャワ島から届いたハガキには舩﨑さん宛に届いたものもあった。
「美好(三義)君、元気かい。お母さん始め、家中皆さん元気の事と思っております。兄も元気一杯に軍務に精進いたしておりますゆえ、ご安心ください。お母さんによろしく」
さらにジャワ島の現地の子ども2人と撮影した写真も実家に送られてきた。写真にうつっているのは現地の子どもたち。熊本の兄弟と重ねたのではないかと舩﨑さんは写真を見ながら微笑んだ。
「かずは死んだよ」
恋しい母に会えぬまま…
兄の最期となったのは太平洋戦争の激戦地・ブーゲンビル島だった。ブーゲンビル島からも遠く離れた母を思う詩が実家に届いた。
「待ちわびし、便りを胸に翻せば、やさしい母の声ぞ聞こゆる」
戦地へ出てから一度も故郷へ戻ることはなかった一義さん。母の声を聞くことはかなわなかった。1945年3月、ブーゲンビル島バインの戦いで亡くなった。27歳だった。
「友達が後から私のところへ文書で知らせてくれたのが、『舩﨑くんは戦いの本番ともなるバインにおいて負傷する。なお、ひるまずもう一度立たんとする、されども手足不自由につき戦友よ、あとは頼むのただ一言、日本男児の花と散る』という文章を残してくれているんですよ」
終戦後、戦死公報が届くよりも前に村に来ていた客人から一義さんが戦死したことを知らされた。覚悟はしていたものの母・カルさんはがくんと崩れ落ち、舩﨑さんに「かず(一義)は?」と尋ねてきたという。
「『三義、かずは死んだよ』と私に言って、それからあまり村人に顔を見せたくない、外に出たくないような気持ちだったと思います。いざ戦死となると、まだほかの子どもが小さいし、これからの生活もあるから」
母の写真を胸に抱いて…
遺骨もない兄を訪ねて
舩﨑さんは母の遺志を継ぎ、1988年から兄の戦跡を調べた。兄の最期の地となったブーゲンビル島には母の写真を胸に抱きしめて向かったという。戦後78年、今も兄の遺骨は戻ってきていない。舩﨑さんは戦争の悲劇と反省を伝えたいと熊本県ブーゲンビル島会で展示会や講演会を行なうなど今も活動を続けている。
「母の写真を抱いて、10年かかり兄の戦跡をたどりました。ブーゲンビル島という名がある限り、戦争のことが頭から離れることはないですね。平和なこの時代をいかに維持していくかというのがやっぱり我々の務めだろうと思います」