1953年6月、未曾有の大雨により白川が増水。熊本市の中心部まで水が押し寄せ、大きな被害を受けました。「思い出したくない」と語ることを避けてきた人たちが、今だからこそ語らなければならないとあの日を振り返ります。
白川大水害から70年 決意新たに…
白川のたもとに川を見守るようにたたずむお地蔵さんがあります。「水害地蔵尊」。地区の住民が6・26白川大水害の犠牲者を弔うために建立しました。毎年、6月26日には慰霊祭が行なわれています。
2023年、白川大水害から70年を迎え、初めてお参りに訪れた人もいました。「思い出したくもなかった」伝えることを避けてきた人たちもこれからは語り継いでいくと決意を新たにしたのです。
戦後最悪の犠牲者を出した
6・26白川大水害
1953年6月26日、記録的豪雨が熊本地方を襲い、熊本市を流れる白川が氾濫。死者・行方不明者は563人、流された家屋は2585棟という甚大な被害をもたらしました。白川大水害は悪条件が重なって起きた戦後最悪の災害でした。
1つは災害発生前の4月に阿蘇・根子岳の爆発的な噴火が起きたことで大量の火山灰が降り、土砂災害が起きやすい状態になっていたこと。2つ目に梅雨の期間の降水量が平年の5倍ほどになっていたことに加え、6月26日の1日で6月の平均降水量を超える雨が降ったこと、3つ目に有明海が満潮の時間だったこと。様々な条件が重なって起きていました。特に大きな被害を受けたのが熊本市中央区大江地区です。
助けて!九死に一生 救われたのは…
白川から南に200メートルほどの場所に住む田尻康博さん(79)。白川大水害を経験したひとりです。小学校3年生になったばかりの9歳で「死ぬ思いをした」と当時を振り返ります。
その日は朝から激しい雨が降り続き、授業は早めに終わりました。学校からずぶ濡れで帰ってから家の中で過ごしていた田尻さん。夕方5時頃に異変に気付きました。
「何気なく玄関を見ると、土間から20センチくらい水がどーっと流れてきたんです。びっくりして、『お母さん!家の中に水が流れている』と叫びました。そうしたら、母は4歳の弟を背中に背負って、私の手をしっかり握って家から飛び出したんです」
近くの大江小学校に避難しようとしましたが、70メートルほど進むと水かさが増し、幼い田尻さんのももの位置まで水が押し寄せました。氾濫した水の勢いは激しく、田尻さんは急流に飲み込まれました。握っていた母親の手が離れてしまいました。
「『あぁ助けて!』と大声で叫んだつもりでしたが声にならず、私は必死でもがきながら死にものぐるいで泳ぎました。泳いだというよりも、急流に流されたと言った方が正しいかもしれません。もうダメかと思った瞬間、道路の反対側に立っていた電柱の鉄の支線を捕まえることができたんです。今思い返せば見えたので掴んだのか、手に当たったからしがみついたのか、体が引っかかったのかわかりません。助かりましたね…」
命をつないだのは電柱を支える直径わずか1センチほどの針金でした。母親が悲鳴のように泣き叫ぶ声が聞こえ、九死に一生を得ました。田尻さん親子は小学校に避難するのを諦めました。途方にくれていると、近くの産婦人科が避難場所にと親子を受け入れてくれました。「困ったときはお互い様ですよ」という言葉が身にしみました。
翌朝、自宅に戻ると声も出ないほど驚く光景が広がっていました。田尻さんの自宅を含め目の前に見えたのは3軒だけ。それ以外の家はすべて流され、何も残っていない更地になっていたのです。
白川に近づくと大きなクスノキの上に前日からいたであろう人が3、4人見えました。丸一日、誰かが助けてくれるのを待っている人たちでした。しかし目の前のクスノキまで行って避難を手伝おうにも、氾濫した水が残っていて助けに行くことは困難でした。
「頑張れ!もうちょっと!もう少しで助けが来るぞ!」
田尻さんは声をかけて励ますことしか出来ませんでした。その後、田尻さんは大江小学校に通う21人の友達が命を落としたことを知りました。
思い出したくない、でも忘れて欲しくない
田尻さんは10年前まで白川大水害について「思い出すのも嫌で、あまり語りたくなかった」と話します。しかし当時の記憶を繋いでいく人も年々少なくなり、災害があったという事実が薄れていく危機感が込み上げてくるようになりました。
自分自身が語り継いでいかなければ、亡くなった人に対して申し訳ない。現在は地区の子どもたちに災害の経験を伝える活動を続けています。子どもたちを前に田尻さんは真剣なまなざしで呼びかけます。
「どこに逃げるのか、いつ逃げるのか、誰と逃げるのか。普段からしっかり考えておくこと。自然災害からは早く逃げるが勝ち。忘れないでください。」